株式会社SonicGarden(ソニックガーデン)
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第四回「倉貫義人が語る、ソニックガーデンできるまで」 2012年12月25日

本連載では、同社CEO兼創業者の倉貫義人が、ソニックガーデン誕生前夜の秘話を、その半生とともに赤裸々に語ります。(全4回の予定)


いよいよこの連載も最終回となりました。
時は2007年6月。全社員の4割にあたる800人まで登録ユーザを伸ばし、コミュニティとしても望外の活性化を果たしていたTCポータル。新年度を迎えるにあたって、役員会でのお披露目も済ませ、社内公式活動の地位獲得にも成功しました。チームのメンバーもめきめきと力を付けました。苦節8年の取り組みが実り、その行く手も順風満帆に思えた矢先でした。好事魔多しとはよく言ったもので、その時、片腕に頼んでいた藤原さんが引き抜かれてしまいました。
またもや、会社の都合で計画変更を余儀なくされた倉貫さん。どのように対処したので羞悪か。そして、いよいよソニックガーデンが誕生します。

自分の預かり知らないところで話を決められないための2つの作戦

藤原さんの引き抜きは、倉貫さんにとってどんなインパクトを与えたんですか。

それはもう凹みました。いいチームでいい仕事をしたいと思ってやってきて、ようやく結果が出てきたところでしたから。とはいっても、2~3日の間ですけど(笑)。

さすがに立ち直りが早いですね(笑)。今度はどのように気持ちを切り替えたんですか?

藤原以外のメンバーも育ってきたところでしたから、そのぐらいで済みました。ただ、会社 の都合でチームに手が加えられても強く反発できなかったのは、自分たちの活動が利益貢献のないコストセンターだったからです。この状況を脱するための方策を2つ考え、具体的に行動に落とし込んでいきました。

すでにお馴染みの流れですが、毎回、見事な立ち直りの早さと冷静な自己分析ですね。では、その2つの方策の内容を教えてください。

一つ目は、TCポータル(今のSKIPの前進)をオープンソース化するということです。こうすれば、何らかの事情で、社内SNS活動が止められたり、自分が退職したり、異動したりしても、自分たちの成果を活かして社内SNS事業に携わることができますから。

もう一つは、言うまでもなく、脱コストセンターを計るということです。TCポータルを利用して事業を立ち上げ、会社に利益貢献するのです。

この方策を実現するため、2種類の企画書の作成に取りかかりました。僕にとっては、会社の資産をオープンソースにするのも、新しい事業を作り出すのも、初めてのことでどうすればいいのかわかりませんでした。全部手探り、全部独学でした。

まず、TCポータルのオープンソース化ですが、具体的にどのような戦略、戦術で進めていったんですか?

開発したソフトをオープンソースにして広く提供すれば、中長期的に会社の技術プレゼンスを高める効果があると、繰り返し説いて回りました。そうはいっても、オープンソース化は会社にとって初めてのことでしたから、その目的や期待される効果は、当初ほとんど理解されませんでした。むしろ、呆れられていたといった方がいいかもしれません。でも、僕はそのころには著述や講演を通じて社外で技術者として存在感を出していました。そして、僕は会社の技術力向上に資する必要がある基盤技術センターに所属していました。そのおかげで、だんだん僕の言っていることを支持してくれる人が増えてきました。

とはいえ、会社の資産を無償公開する企画を会社で通すには、取締役会で承認を得なければなりません。その取締役会にたどり着くためには、(1)上司や周囲、の課長の賛同を得る、(2)役員の間で支持を得る、(3)取締役会の議案提出を統括する企画部長から認められる、というステップがあります。

(1)と(2)をクリアしたころには、もう2007年の秋の声を聞いていたと思います。当時、毎月の取締役会に提出される議題は3つか、せいぜい4つです。しかも、1~3月は新年度の計画が中心になります。 12月の枠に入れなければ、3ヶ月単位で後回しになるところでした。何とか12月の取締役会の議題に取り上げてもらい、最終的にオープンソース化の承認を得ました。2007年の終わりのことです。

思いがけないイベントに阻まれるも、辛抱強く事業化の承認を獲得

すべり込みセーフというわけですね。さすがです。ところで、並行して準備していた社内ベンチャー化の方はどうだったんですか。

こちらの方が大変でした。オープンソース化計画と同時並行で進めていましたが、こちらの方が取締役会に提出する際のハードルが高かったので、12月の取締役会には間に合いませんでした。1~3月の繁忙期が過ぎるのを待って、新年度早々にチャレンジできるように進めていたんですが、そこでまたイベントが発生しました。

今度は何が起きたんですか?

会社が他社と経営統合することになったんです。その結果、何が起きたかというと、社長以下役員の顔ぶれが大幅に変わりました。当然、オープンソース化計画の時にコンタクトしていない役員が増えたので、一からの出直しを迫られることになってしまったんです。

途方に暮れかかっていたところで、救いの神の手がさしのべられました。技術担当だった役員が、新社長との差し向かいのパワーランチの場をセットしてくれたんです。それこそ、ランチなんかそっちのけで、TCポータルが実現した社内情報共有環境をクラウドを利用してサービスとして外部に提供する事業を始めたいと訴えました。わずか1時間足らずのランチでしたが、即決でGOサインが出ました。2008年の6月ごろの話です。

何ともドラマチックですね…。ちなみに社内ベンチャー制度が採用されたのはどういう経緯だったんですか?

誤解があるかもしれませんが、当時の会社に社内ベンチャー制度があったわけでもありませんし、その後同じように社内ベンチャー制度が適用されたという話も聞いていません。僕も社内ベンチャーを目指していたわけでもありません。

僕が目指していたのは、自分のチームに割り当てられた社内資源を一方的に取り上げられないようにすることです。そのためにコストセンターを脱するために、事業化の企画を立てたんです。その結果、新社長から事業化に向けたお墨付きが出たので、具体的にどうやって実現したらいいか、企画部と協議しました。そうして出た答えが、社内ベンチャーとでもいうべきところに落ち着いたという方が正確かも知れません。

社内ベンチャーといっても、社内組織上は独立した事業部です。ただし、たいていの予算決裁権を僕が掌握し、通常の事業部とは異なる計数評価の下で、副社長に直接レポートするという形ですから、目的は概ね達成できました。僕は子会社化を望んでいましたが、会社にとってみれば、新会社設立は色々と手間もコストもかかりますからね。

こうして、2008年の秋、僕らは基盤技術センターを出て、営業推進部の軒先を借りるようにして、営業活動を始めました。

技術者から経営者へ

たいていのスタートアップは、最初の顧客を獲得するまでに、かなりの挫折を味わうものですが、倉貫さんたちはどうでしたか?

正直なところ、「オレが作ればきっと売れる」と高をくくっていたところはありました。実際はそううまくはいきませんでしたけど(苦笑)。技術者でしたから、営業方法は知りません。営業推進部長の話を���いたり、テレアポサービスの社長の話を聞いたりしながら、最後は自分で試行錯誤しました。うまく行かないことのほうが多かったですけれど、後ろ向きになることはありませんでした。僕はモチベーションが下がるってことがほとんどないんです(笑)。

一方で、社長のお墨付きでスタートしたからしばらくは潰されないだろうといった気持ちを持つこともありませんでした。そういう意味では、今まで安心とか安泰といった気持ちになったこともありませんね。いつも不安はありますが、その不安が現実のものにならないように常に対策を考えて先回りするのが、僕のスタイルです。

このときも、事業活動を始めたのが秋ですから、すぐに2009年度の予算案の策定が始まりました。大企業では、社内力学を念頭に置いて潮目を読みながら、うまく社内資源を獲得していかないとやりたいことはできません。幸い、数件の受注が見えていたので、要員を3人追加して、他部署の軒先から出られるように、計画案を作成し、会社に承認してもらいました。

ところで、スタート時点で藤原さんは戻ってこられたのですか?

いいえ。スタート時点のメンバーは五人だったと思います。そのうちの一人は、パートナーだった前田さんなので、社員としてのメンバーは四人でしたが、その中に藤原はいませんでした。先ほどの新年度に向けた増員計画が通ったので、社内公募を実施しました。藤原はそこに応募してきて、僕たちに合流したんです。社内ベンチャー制度が正式に制度化され、独立したオフィスに移ることもできました。2009年5月のことです。

結局、2007年6月の離脱から再合流まで2年近くかかったんですね。倉貫さんは、実に辛抱強く粘り強い一面をお持ちなんですね。他には、技術者から事業家になって変わったことはありますか?

社内ベンチャーになってから、僕はプログラマを止めています。今でも、かなり細かい部分まで設計作業には関わっていますが、いわゆるコーディング活動からは身を引いて、経営者として働くと言うことと向き合い続けています。「経営はとても片手間ではできることじゃない」と思ったからです。

最初はプログラマとしてこのメンバーと気持ちよくやりがいのある仕事をしていきたいと思っていましたが、その環境を守ろうと思った時に事業として自立しなければなりませんでした。そして、事業として自立するためには、お客様の要望に応えられなければなりません。社内ベンチャーになって経営者として活動していく中で、そうした意識は大きく変化したと思います。ほんとに月並みな表現ですけれど、「人は一人では生きていけないものだ」ということを肌身で感じました。もちろん、「お客様に喜んでもらえることの喜び」をこれまでも意識していなかったわけではありませんけれど、そのことの価値は大きく変わったと思います。

そんな思いで試行錯誤していたら、初年度二件の受注をいただけて、その後もなだらかでしたが売上は伸びていきました。社内ベンチャーに求められた急激な売上成長には及びませんでしたけれど(苦笑)。

そこで、コストをかけて売上規模を追う方針を捨てました。コストをかけても、かけなくても、売上はそれほど変わらないなら、まずはその売上の中で黒字転換を目指そうと考えたんです。実際、2010年度には、ほとんど黒字というレベルまで持ってくることができていました。

そして、ソニックガーデン独立へ

いよいよ完全独立の2011年が近づいてきましたね。黒字化も見えてきたし、これなら独立だって気運がチームの中に高まってきたんですか?

いいえ、全く違います(苦笑)。独立したかったから自ら動いたというわけではありません。2010年の秋にあった僕のレポート先だった副社長からの呼び出しがきっかけでした。

それはどのような内容だったんですか?

副社長からは、来年度から僕たちの後見役を続けられなくなると言われました。会社が今度はグループ内で経営統合することになって、その副社長が新社長に就任することにが決まったんです。もちろん当時はナイショでしたが(笑)。

僕は、それを「新たに後見役となった役員の考え方、あるいは持ち株会社の意向によっては、今のままで継続できるかわからないぞ」というシグナルだと理解しました。それで、想定されるリスクに対する対策を講じることにしました。

その対策がMBO *1 だったんですか?

いいえ、違います。最初に考えたのは、別会社として独立する、つまり子会社化という案でした。実際のところ、僕が目指しているビジョンと会社のビジョンの間にギャップがありましたし、その必然としてオペレーションについてもギャップがありました。ですから、自分たちがよりいっそう自律的、自立的に活動していくのに、子会社化は有効だろうと考えていました。

*1MBO (Management Buy Out):会社の経営陣が株主より自社の株式を譲り受けたり、あるいは会社の事業部門のトップが当該事業部門の事業譲渡を受けたりすることで、文字通りのオーナー経営者として独立する行為のこと。(出典 Wikipedia)

しかし、合併を控えた社内で、新しい企画を取締役会で通すのは例年以上に大変でした。会社にとって優先すべき課題が山積しているから当然なのでしょうが…。そんな中でも、何とか自社の取締役会の承認を得て、後は(前回の経営統合で誕生した)持ち株会社の承認を得れば、というところまでこぎ着けました。でも、承認は一向に下りませんでした。持ち株会社が官僚的だったというところもあるでしょうが、それだけでもなかったでしょう。ガバナンスを効かせようとして統合を進めている会社から別に子会社を作ろうという話が来るのは、確かにあまり筋の通った話とは言えませんからね(苦笑)。

そうこうしているうちに、2011年3月11日がやってきました。東日本大震災です。子会社化の話は完全にストップしていたと思います。その一方で、僕の心境にも変化が起きました。人の命の儚さを思ったとき、人生をもう少しスピードアップしようと考えたんです。半年、一年がかりの社内調整を要する巨大組織のオペレーションを受け入れられなくなっていました。

それで、MBOをして独立しようということになったんですね。お話を伺う前は、今のソニックガーデンのようなユニークなオペレーションの会社を創りたくて独立したのではと、勝手に想像していましたが、まったく違いましたね。

せっかく自分たちのビジョンに基づいて、自分たちでオペレーションを作って、自分たちのパフォーマンスを発揮して、お客様に喜んでもらえる方向性が見えてきたんです。それが、自分の預かり知らないところで、書き換えられるようなことにならないようにしたい、というのが目的でした。その目的に到達するための最善の手段を徹底的に考えた結果、「ルールは少なく」や「フラットな組織」といった今のカタチに行き着いたんです。

好きなオペレーションでやるために起業するなんて、そんな近視眼ではうまくいかないと僕は思います。最終的に、MBOという道に至ったのも、そうするのが目的を達成するのが必要だと思ったからです。オペレーションは手段であり、目的ではありません。そこを取り違えないことが大事ではないでしょうか。


「手段の目的化」に対する厳しい戒め。最後まで倉貫さんらしいですね。これで、ひとまずこの連載は終了です。ソニックガーデンが独立したとき、この会社を退職して参加したメンバーは、当時の7人の社員のうち4人でした。外部パートナーから社員になった前田さんを含めた5人の「独立メンバー」が当時の新米社長をどんな目で見ていたのか、そんなお話も聞いてみたくなりました。


倉貫義人の略歴
1974年 京都府向日市に誕生
1993年 高校卒業、大学へ進学
1997年 大学卒業、そのまま大学院へ進学 1999年 大学院を卒業、東洋情報システム(当時)に入社
2003年 XPJUG会長に就任
2009年 社内ベンチャー「ソニックガーデン」をスタート
2011年 ソニックガーデンをMBO


 インタビュアー/ライティング:古田英一朗

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「納品」をなくせばうまくいく~ソフトウェア業界の"常識"を変えるビジネスモデル
「納品」をなくせばうまくいく 表紙

本書は、IT業界の、とりわけソフトウェア開発の業界で〝常識〟とされているビジネスモデルを変えてしまおうという試みです。ソフトウェア業界にはびこる多くの問題を解決するために取り組んだ新しいビジネスモデル「納品のない受託開発」について書いています。「受託開発」なのに「納品」をしない、なぜそんなことをやっているのか、そして、なぜそんなことが実現できるのか、その秘密について解説したのが本書です。(著者:倉貫義人 出版:日本実業出版社)