ソニックガーデン創業メンバーから見た倉貫義人の素顔
前回までソニックガーデン創業までの足跡を社長の倉貫さんの視点で振り返ってきました。(詳しいことは、こちら) 今回は、その倉貫さんの傍らで共に歩んできた4人の創業メンバー(藤原、安達、松村、前田の四氏)にインタビューしました。 今回のインタビューでは、一部上場システムインテグレータの一組織だった彼らが「株式会社ソニックガーデン」へと独立するまでの間の2回のターニングポイントに注目しました。 ・社内システム運用部門から事業部門への転進 ・社内ベンチャーから完全ベンチャーへの独立 それぞれのターニングポイントで、各々がどのように意思決定したのか、さらに倉貫さんがどう変化したのか、以下の5つの質問を通じて語ってもらいました。
- (1)倉貫さんの第一印象はどうでしたか?
- (2)社内ベンチャーとして事業部門になると言われたときはどう思いましたか?
- (3)”経営者”になった倉貫さんは、どう変化しましたか?
- (4)当時いた会社を飛び出して、完全独立すると言われたとき、どう思いましたか?
- (5)今までつき合ってきた倉貫さんを「ひと言で表現する」と、どんな人ですか?
COO 藤原士朗さんの場合
トップバッターは、自他共に認める倉貫さんの右腕、COOの藤原さんです。まず、倉貫さんの第一印象ですが、初めて会ったのはいつですか?
僕が初めて倉貫さんと会ったのは、入社した2004年の7月です。3ヶ月の新人研修を終えて、その年の理系大学院卒業組の中から基盤技術センター(以下、TC)への配属者を決める面接の場でした。当時は面接だとは聞かされていませんでしたけれど(笑)。 入室すると、TCの部門長とインフラチーム、アプリチームのリーダー各1名の計3名が僕たちを待ち受けていたんですが、そのうちのアプリチームのリーダーが倉貫さんでした。僕らと目を合わそうともしないので、「えらい態度の悪い人だなぁ」と思いました(笑)。それが第一印象です。 他の人は常識的にアイスブレイクしてくれて、僕らも何を話したか覚えていませんが、色々対話しました。でも、倉貫さんは、ひどくむずかしい顔をして「これからインターネットの世界はどうなると思うの?」なんて、尖ったナイフのような質問を投げかけて、僕ら新人君を凍り付かせてくれました(笑)。それでも、不思議と嫌悪感は持ちませんでしたね。
なるほど。ちなみに、その後晴れて倉貫さんの部下になったわけですが、実際にいっしょに働いてみて印象は変わりましたか?
配属された当初は、Excelやプレゼンテーション作りに勤しみ、プロジェクト管理や企画提案をこなす姿しか目にしませんでした。そこだけ見ると、おそらくシステムインテグレータのチームリーダーとしては珍しくないんじゃないでしょうか。 僕が倉貫さんのエンジニアとしての力量を見せつけられたのは、配属されてから一年後、当時の組織から倉貫さんと僕以外、全員引き抜かれて行ってしまった後のことです。そのころ注目を集めていたJavaScriptに関する社内勉強会がありまして、マネージするスタッフがいなくなってプログラマに戻っていた倉貫さんも参加していました。 そこで倉貫さんが見せてくれた自作のマインスイーパ(Windows標準搭載の爆弾探しゲーム)のソースコードがまさに匠の為せる技で、改めてすごいプログラマなんだなと認識しました。
藤原さんは、その後倉貫さんといっしょに、今のSKIPの前身にあたる社内SNSを開発、立ち上げたものの、2007年春に他業務へ異動になりましたね。それが、倉貫さんに事業化へ舵を切らせる一因になっているわけですが。
そうです。なので、TCを出て社内ベンチャー部門になったころ。僕はメンバーの中にいませんでしたし、頻繁に連絡を取り合っていたというわけでもありませんでした。当時、僕は中心的に関わっていた社内技術者向けイベントの開催に成功したりして、それなりに充実していました。 その僕から見ると、あのころの倉貫さんは「淋しそう」でしたね(笑)。「そんなことやってる時間があるなら、こっちを手伝ってよ」なんて言われた記憶があります。
藤原さんは、2009年4月にソニックガーデン事業部に合流し、倉貫さんの右腕としてご苦労されたわけですが、独立の時はどんな経緯で、どのように受け止めたんですか?
このまま(社内ベンチャー)というわけにはいかないかも」と倉貫さんに言われたのは、2010年の暮れぐらいだったと思います(注:最初は子会社として独立っていう方向だった)。倉貫さんはそういう話を知って2~3ヶ月色々と考えた後だったはずなので、かなり"前のめり"でした。 でも、正直なところ、最初は「一緒に独立します!」とすぐには思えませんでした。もともと、僕は保守的というか慎重な質です。結婚もしてましたし、何より第一子が産まれたばかりでした。
ついて行けていなかったところから、どのような心境の変化があったんですか?ご家族は反対されませんでしたか?
なんと言っても、「自分の人生の進路は、自分自身で舵を切りたい」という思いが強かったということですね。会社が進む方向に合わせて自分の人生が振り回されていてはダメだ、と思うようになりました。それに、僕自身はリーダータイプではなく、フォロワータイプです。最後は「倉貫さんをサポートしながら、自分の想い描く組織や働き方を実現しよう」と心を決めたわけです。 それに、ソニックガーデンのビジネスは、一般管理費 *1 という名目のコスト負担が無くなれば、黒字転換も視野に入ってきていました。 奥さんには、売上見込など色々と順を追って説明したんですけど、「で、倉貫さんとやりたいの?」って言われちゃって、「はい、やりたいです」って感じでした(笑)。
奥さまはすっかりお見通しだったんですね。最後に、倉貫さんは藤原さんから見てひと言で表現するとどんな人ですか?
「クソ真面目な人」ですね(笑)。
*1 一般管理費:(間接部門の人件費や光熱費、家賃、減価償却費などや租税公課、会社全体の福利厚生費、交際費などの諸経費)が頭割りされたもの。大企業の一般管理費は、普通のベンチャー企業の感覚からすると、かなり高額なものになるのが普通である。
CIO 安達さんの場合
安達さんは、この後登場する松村さんと2007年の同期入社です。2007年という年は、前の年に非公式社内SNSとしてスタートしたTCポータルが役員会で認められた一方、藤原さんが他部門への異動になった年です。このころ、倉貫さんは「稼ぐ側」に回らないとチームを守れないと考えて、TCポータルのOSS化や事業化に向けて活動し始めます。そんな転機の一年に新人として配属されたお二人の眼に倉貫さんどう映っていたのでしょうか。
安達さんと倉貫さんの出会いは、配属面接のときですか?
はい。目を合わせることもなく、むすっとしてPCを操作してて、「コワイ」っていうのが第一印象でした。しかも、僕が倉貫さんの質問に答えたら、「で?」って返してくるんです。それで、また答えると「で?」って(笑)。怒られてるんだと思いました。 その時、倉貫さんに何か聞きたいことがあればと言われて、つい「倉貫さん、コワイです」って言っちゃったぐらいです(笑)。
配属されて、上司・部下の関係になってみて、その印象は変わりましたか?プログラマとしての実力を目にする機会はありましたか?
さすがに、そのままということはありませんでした。面談の時の「で?で?」攻撃も、僕たちに自分で考えさせようとしているだと言うこともわかってきました。 あのころ、倉貫さんはTCポータルの改良作業に加わっていたので、エンジニアとしての実力の高さを知るのにあまり時間はかかりませんでしたね。
2008年10月に事業部門に移行すると言われた時、安達さんはどう受け止めたんですか?
実は、あの時僕はTCに残ってるんです。チームの中で事業部門に移ったのは半分ほどでした。僕は、当時主体的に率いていた、あるプロジェクトに正直なところ没頭してました。それで、そのプロジェクトでの自分の役割が終わってから、藤原さんと同じタイミングで行われた公募に応募したんです。
事業部に異動すると、売上を上げなければならないとか、気にならなかったんですか?
そこはあまり気にしていませんでした。倉貫さんとの仕事は楽しいし、新しいことに挑戦できるので、迷わず応募しました。
異動したのは、2009年の4月ですね。そのころ倉貫さんは、大好きなプログラミングを封印して、経営者に徹するようになったと振り返っていますが、何か前後で変化は見られましたか?
異動してみて驚いたのは、倉貫さんが痩せていたことですね。でも、苦労を表に出さない人なので、あまり大変そうには見えませんでした。 エンジニアだった僕は当事者ではありませんでしたけれど、会社のそれまで続けてきたのと違う、新しい営業スタイルに移行するのに苦慮しているんだな、というのは僕にもわかりました。
さて、社内ベンチャーから完全にベンチャーになると言われたとき、安達さんは迷いましたか?
実のところ、全く迷いませんでした。当時、僕はまだ独身でしたし。あ、今もですけど(笑)。それ以前に、倉貫さんが米国出張から帰ってきた後、海外支社を作るって言っていたことがあったんですが、僕はそれが現実になる、つまり海外で働くことになるのを楽しみにしていたくらいです。 ただ、両親に話したら、少し心配していましたね。それでも、万一うまくいかなかったとしても、技術者としてやっていく自信はありましたから。
では、最後に、倉貫さんをひと言で表現すると、どんな人ですか?
あまりうまく言えませんが、「考えさせる人」でしょうか。自分の頭でしっかり考えて答えを出すことを強烈に求められるので、やはり考えさせる人でしょうね。
CTO 松村章弘さんの場合
松村さんも、初対面は面接の時ですね。
はい。そうです。一人、若いのにエラそうな人がいるなぁって思いました(笑)。僕はその面接の時、倉貫さんとのやりとりの流れで、「本を書けるようなエンジニアになりたい」って言ったら、「そんなん、すぐになれるよ」 *2 って言われました。スゴイ人なんだなぁって思いました。 その後、実際に配属してみて感じたのは、厳しい人だなぁというところですね。他人にも厳しいですけれど、自分にも厳しい人です。
事業部門に移ると言われた時は、どう思ったんですか。
実は、そろそろ社内向けの活動に飽きてきていたところだったので、不安よりも楽しみのほうが断然強かったです。不安と言えば、事業部門に移ることより、SKIP(当時はTCポータル)がオープンソースになることで、自分の書いたソースコードを他人に評価されることの方が気になりましたね。
実際に、事業部門となった後、倉貫さんには何か変わったところはありませんでしたか?
僕は自分の立っているところでしか見てなかったので、あまり思い当たるところはありません。ただ、もともと厳しい人ですけれど、このころは一段と厳しかったように思います。そういえば、倉貫さん、あのころ痩せましたね。本人は「起業痩せ」って言っていたと思います。
みなさん、心配してなかったんですか?
ええと、そうですね。僕は健康的な痩せ方だなぁって思っていました(笑)。
なるほど。本当に表に見せない人だったんですね。それでは、独立すると言われた時には、いかがだったんですか?当時、すでにお子さんがおられたとか…?
はい。僕は入社2年目で結婚しまして、子どもは今一歳半ですから、ちょうど生まれるか、生まれないか、といったところでした。でも、「やるしかない」っていうのが、率直な思いでした。会社に残る理由はなかったですし、倉貫さんについていけば後悔はしないと思っていました。 それに、僕は倉貫さんに選ばれた、という気持ちもありました。独立するにあたっても、全員に声をかけたわけではないでしょうから。
それでは、松村さんからこれまでに見て来た倉貫さんをひと言で表現してください。
うーん、そうですね。「ストイックな人」でしょうか。僕は、あれほどストイックな人は見たことがありません。自分の目標達成に対して論理的(ロジカル)に計画を立てて、立てた計画を目標通りに遂行していく。でも、倉貫さんは、あれで結構『熱い』人が好きなんです。 朝一番に「昨日言ってたあれ、一晩で作ってきました」って真っ赤な目をしばたたかせながら言ってくるような人が好きなんです。かくいう僕もけっこうそういうところがあるんですけど(笑)。 でも、悔しいというか、憎らしいというのもありますね。倉貫さんは、自分の考えを示した上で、残りのメンバーで議論して結論を出させるということをよくするんですけど、結局倉貫さんの考えを越えることができないんです。まるで、手のひらの上でうろうろしているようで(笑)。
*2 「そんなん、すぐになれるよ」:2012年12月現在、Amazonで検索したら3冊出てきました。
前田直樹さんの場合
前田さんは、これまでの3人と立場が少し違います。フリーランス・エンジニアの前田さんは、倉貫さんたちのいた会社にパートナーとして参加され、今日に至っています。倉貫さんとの出会い方や進路の考え方など、これまでの3人とは違った話になりました。
前田さんは、聞くところによると、ソニックガーデンのメンバーの中で一番倉貫さんとのお付き合いが長いそうですが、どんな"馴れ初め"だったんですか?
2007年9月ごろ、たまたま参加したエンジニアのイベント *3 に登壇した倉貫さんの話を聞いて興味がわきました。当時、僕は前職を辞めたばかりでRuby(の仕事)をやりたいと思っていました。でも、倉貫さんは当時XPJUG *4 の会長でしたし、かなりオーラが出ていました。結局、懇親会まで出たんですけど、話しかけられませんでした(笑)。ただ、プレゼンテーションの最後のページにRubyのエンジニアを募集中という表示があったので、書いてあったアドレスにメールを送りました。 そうしたら、僕が書いていたブログも目を通してくれたみたいで、会いましょうっていうことになりました。ブログからパーソナリティを見極めるって、もうあのころからやっていたみたいです。
面接があったと思いますが、やっぱり、目も合わせず、ヤな感じだったんですか(笑)?
え、そんなことなかったですよ。ごく普通、いやむしろ、物腰は柔らかでしたね。倉貫さんは会社の同僚や後輩ではない僕を部下ではなく、パートナーとして位置づけてくれています。彼はそういうところの区別はきちんとする人ですよ。今でも、「前田さん」って”さん付け”で呼んでくれます。ただ、その時「君のコード、Javaっぽいね」って言われましたけど(笑)。
他のメンバーの話とはずいぶん違いますね。さて、そうした経緯を経て、チーム倉貫の一員になった前田さんですが、その翌年には事業部門に異動することになります。その話を聞いたときには、どう思われましたか?
仕事をやる上で社員かどうかの違いは、昔も今もありません。でも、そういった(人事制度的な)面では立場が違った(ので影響はなかった)ので、悩んだり考えたりする必要はなかったです。やることもその前後で変わらないということでしたし、実際エレベータを降りる階が変わったぐらいです(笑)。
なるほど。ちなみに、その前後で倉貫さんの様子に変化はありませんでしたか?
激やせしましたね。顔色が悪かったように記憶しています。でも、ふさぎ込んだ様子を見せたり、誰かに当たったりするようなことはなかったので、みんなそんなに心配してはいなかったように思います。
そのあたりの証言はみなさん変わりませんね。それでは、独立すると聞いたときは、どうですか?確か、前田さんにとっては、カナダから帰国し、アイルランドに出国するまでの準備期間だったと思いますが。
そうですね。会社のやることも、僕の仕事も今までの延長線上でしたから、器が変わることは僕にとってあまり関係の無い話でした。僕にとっての変化は、前の会社の時は大人の事情で直接契約できなかったのが、できるようになるってことぐらいですね。そもそも、僕はフリーランス・エンジニアなので、万が一の事態が起きたときの覚悟は、倉貫さんと働き始める前から持っています。
最後に、前田さんがこれまでつき合ってきた倉貫さんという人は、ひと言で言って、どんな人ですか?
ひと言で言うのは難しいですけれど…(沈黙約1分)…強いて言うとすれば、「道を切り拓く人」ってところでしょうか。
*3 gungi:2007年から翌年にかけて開催されていたエンジニア交流勉強会。調べてみると、2007年8月29日に、「イントラHacks」というテーマで開催された第4回gungiの登壇者に倉貫さんの名前がありました。 *4 XPJUG:日本XPユーザグループ
インタビュアーからひと言
みなさん、「ひと言で表現して」と言われて困っていましたが、4人の証言を重ねていくと、倉貫さんと彼を中心としたソニックガーデンのアウトラインがなるほど浮かび上がってくるのではないでしょうか。 戦略家で”したたか”という印象の目立つ倉貫さんでしたが、部下の面接の時には変人を装う(隠さない?)割りに、前田さんの前では物腰やわらかな人だったり。社内ベンチャーになってからは、経営者になるために好きなプログラミングを封印し、慣れない営業の苦労を表に出さないところなど、彼のアントレプレナーシップを物語っています。 倉貫さんを支える他のメンバーも印象的でした。激ヤセして顔色が悪くなってもほとんど心配してあげないのに、いざという時にはすっと付いてくる。そして、そこには、チーム倉貫で鍛えられた技術者としての腕に対する揺るがぬ自信が秘められています。ソニックガーデンには、何とも興味深い面々が揃っているなと感心します。 このインタビューの当日開かれたソニックガーデンの2012年忘年会で、彼らのアナザーサイドに触れる機会もありました。とても興味深かったのですが、それはまた別の機会があれば。
インタビュアー/ライティング:古田英一朗