第一回「倉貫義人が語る、ソニックガーデンできるまで」
- 【第一回】学生時代のプログラミング経験から会社を選択するまで
ITが私たちの生活をより豊かにしていくにつれて、その主役を担うソフトウェアの重要性が高まっています。「よりよいソフトウェアをより"じょうず"につくるということは、思った以上に重要だ」。アジャイル開発やその先駆けであるソニックガーデンが、多くの方から注目を集めているのは、そんな社会の気づきによるのではないでしょうか。
しかし、ここまでの道のりは、決して平坦なものではありませんでした。社会が「よりよいソフト開発のありよう」にまだ気づいていなかったころ、ソニックガーデンのDNAは、一人の男の中で胎動をはじめました。そうして、今日に至るまでの間、時につまずき、時に悩み、時にもがきながら、ソニックガーデンは形作られてきました。
ここでは、同社CEO兼創業者の倉貫義人が、ソニックガーデン誕生前夜の秘話を、その半生とともに赤裸々に語ります。
題して「倉貫義人が語る、ソニックガーデンできるまで」。
小っちゃいころからコンピュータ好きの倉貫少年、「初めて」はファミリーベーシック。
倉貫さんはプログラミング大好きと公言されていますが、コンピュータとの出会いはいつごろだったんですか?
小学4年生の時にファミリー・ベーシック※1を買ってもらったのが、始まりです。すぐにプログラミングにはまりました。僕は1974年生まれなので、ちょうど10歳のころですね。その次は、中学生のころに買ってもらったMSX※2です。そのころには、プログラミングしていれば幸せ、って感じでした。そのころ作っていたのは、やっぱりゲームプログラムでした。でも、高校入学を機にコンピュータに触れない環境になっちゃったんです。全寮制の高校※3に進学したからです。
倉貫さんがプログラミングしない高校生活を送っていたなんて、イメージがわきませんね。
それでも、幸いそんな時期はそれほど長くありませんでした。当時は学校にコンピュータ教育が導入され始めた時期だったんですが、私学ということもあり、その高校でもコンピュータ室が設置されたんです。でも、学校でコンピュータのことがわかるのは、全校見渡しても僕だけだったんですよ(笑)。それで、初代PC部長として、コンピュータ室の鍵を管理させてもらって、好きなときに好きなだけその部屋のPCを使っていました。普通に立ち上げると専用の教育ソフトが起動するんですけど、マニュアル読み込んで、MS-DOSモードで立ち上げたりして、(笑)。
「プログラマこそわが天職」と知り、ゲームコミュニティ運営にハマった大学時代
目に浮かぶようです(笑)。大学に進んでからも、やっぱりプログラミング漬けですか?
もちろん(笑)。高校を卒業して、京都の大学に進んだんですけど、やっぱり"プログラミング大好き"の毎日を送っていました。大学でソフトウェアの勉強するのも楽しかったですよ。でも、プログラミング好きが高じて、学生ベンチャーのソフト開発会社で始めたアルバイトがまたやりがいがありました。機能や画面の一部とはいえ、自分の作ったプログラムが世の中で使われるというのは感動的でしたね。興奮しましたよ。しかも、周りの学生がやっている、たいていのどのアルバイトより実入りがいい。それで「これは、プログラマこそが自分の天職だ」って思いましたね。
僕の大学での専攻は、ソフトウェア工学のオブジェクト指向でした。入った研究室の教授は大変なMacのファンで、置いてあるのはMacばかりだったんですが、当時(1995年ごろ)のMacはとても不安定でした。そういうこともあって、僕は、研究室では、もっぱら片隅に放置されていたNeXTのワークステーション※4をお気に入りにしていました。とはいえ、自宅にNeXTは買えないので、個人用にはDOS/V※5パソコンを使っていました。あのころのWindowsは、ボーランドが販売していたDelphiなんかがすでにあったので、手軽に慣れ親しんだCを使いながら、オブジェクト指向型のプログラミングを楽しめたんですよ。
大学時代は、ずっとオブジェクト指向の研究とアルバイトの日々だったんですか?
オブジェクト指向の勉強については、まじめにやっていましたけど、アルバイトのほうには転機が来ました。大学3年のころ、指示されたものを作るばかりでなく、自分たちで考えたものを作りたいという欲望にかられまして、フリーウェアを作り始めました。ゲームを作りたいという研究室の先輩に声を掛けられて、いっしょにRPGを開発することになったんです。僕は熱心なゲームプレーヤではなくて、プログラムさえ書ければよかったので、他の人が自分で作ったシナリオをゲームにできるようなプラットフォームというか、ゲームエンジンを作ったんです。最初は、もっぱらゲーム好きの先輩が楽しんでいたんですけれど、ウェブ上で公開して他の人にも楽しんでもらおうということになったんです。
当時は、そんなことしている人たちは珍しかったんじゃないですか?。
ええ、当時は1995年ですから、Windows95が出るか出ないかというころだと思います。まだインターネットが流行始めたってころでしたから。僕がいちからウェブサイトを立ち上げて、そのゲームソフトをフリーウェアとして公開したんです。まだ、やっている人が少なかったこともあるんでしょうが、なんと一晩で全国の数百人がダウンロードしてくれました。これには感動を通り越して衝撃的でさえありました。「ソフトウェアとインターネットを使いこなせれば、自分で作ったものを世界に届けられるんだ」ってことを知っちゃったんです。このとき、「社会に出る時には、インターネット×プログラミングでやっていこう」って決心しました。
公開したゲームソフトは、エンジンとシナリオを分離してあって、他の人にもゲーム作りを楽しんでもらえるようになっていたんですが、これが幸いしました。僕が作ったエンジンを使ってゲームを作る人と、そのゲームを楽しむ人が集うコミュニティになったんです。これが結構な人気になりました。
プログラミングを楽しむだけでなく、使ってもらって、喜んでもらって、人が集う場を作って。まるで、今のソニックガーデンの原型を見るようですね。
言われてみれば、その通りなんですけど、その当時はそこまで考えていたわけじゃありません。でも、確かに面白かったですね。正確なユーザー数はわかりませんが、数十万ダウロードにはなりました。その筋では結構注目されて、有名な某出版社から書籍執筆の誘いがあったくらいです。プログラミングも、コミュニティ運営も、とても楽しかったです。楽しかったんで、続けたくって大学院に進んじゃったくらいです。もちろん、その頃の経験は今に生きています。
いよいよ就職。満を持したキャリア設計のはずが入社早々に挫折!?
オブジェクト指向プログラミングとゲームソフトコミュニティ運営の醍醐味を満喫した倉貫さんが、就職先に上場企業のシステムインテグレータを選んだというのは、いささか意外な印象がです。
そもそも、例の3人で始めたゲームコミュニティを会社にしようという気は、僕にも他のメンバーにもなかったんです。他のメンバーも就職するというし、それなら僕もということになったんです。いざ就職となっても、学生ベンチャーで働いた経験もあったし、安定感を求めて大企業に就職したいとは考えませんでした。プログラミングの腕には自信もあったし、いざとなれば、その腕を頼みに生きていく自信もありましたから。でも、大企業のオペレーションは一度体験しておきたい���思ってたんです。大企業に入ってから小さい企業に移ることはできるでしょうが、その逆はそう簡単なことじゃないでしょう。それで、最初は大企業に入ろうと思ったわけです。
TIS、当時は東洋情報システムという名前でしたが、この会社を選んだのは、オブジェクト指向に積極的に取り組んでいたからです。当時、僕が調べた限りでは、オブジェクト指向に積極的に取り組んでいる印象があったのは、全国で二社だけでした。オブジェクト指向を冠した部署があるのも、オブジェクト指向に関する書籍を出しているのも、その二社だけでした。もちろん、二社とも応募しました。そのうち、先に内定を出してくれたのが、TISだったんです。もちろん、お目当ての部署ーオブジェクト推進室という名前だったんですがーに入れるよう、役員面接なんかでも猛烈にアピールしました。
やりたいことがはっきりしていて、その目的と合致した就職に成功したあたりは、いかにも倉貫さんらしいですね。 入社後の配属は思い通りにいきましたか?
実は、衝撃的なことに、そのお目当てのオブジェクト指向推進室は、僕が入社した年の4月にいきなり消滅してしまったんです。
当時(1999年)は、いわゆる2000年問題への対応という課題が市場にありました。そういう事情もあって、システムインテグレータの経営方針は、新しい技術への対応より、いかに人件費を抑えて利益を出すかという管理指向に傾倒していました。僕が入社した会社もご多分に漏れず、同様の経営方針が打ち出されて、その方針の一環として、オブジェクト指向推進室が解散させられてしまったんです。
オブジェクト指向がやりたくて入った会社だったのに…。入社早々にして、僕の目論見は見事に外れてしまいました。
楽しくもやりがいのある大学時代を経て、明確な動機に基づいて選んだ会社に入社できたのもつかの間、希望していた仕事に携わる道が消滅。皮肉にも自ら経験したかったという大企業のオペレーションの何たるかが、順調だった人生に初の挫折をもたらすことに…。
倉貫義人の略歴
1974年 京都府向日市に誕生
1993年 高校卒業、大学へ進学
1997年 大学卒業、そのまま大学院へ進学
1999年 大学院を卒業、東洋情報システム(当時)に入社
2003年 XPJUG会長に就任
2009年 社内ベンチャー「ソニックガーデン」をスタート
2011年 ソニックガーデンをMBO
注1 ファミリー・ベーシック 1984年に発売された任天堂のファミリーコンピュータの周辺機器。ファミコン本体に接続することで、BASICの簡単なゲームプログラムを自作できる。
注2 MSX 1983年に米マイクロソフトとアスキー(現アスキー・メディアワークス)によって提唱された8ビット・16ビットのパソコンの共通規格の名称。
注3 全寮制の高校 甲子園の常連校であり、朝青龍、横峯さくらなど多くの数多くプロフェッショナルアスリートを輩出したことで知られる明徳義塾高校。クラスメートには、かの有名な松井秀喜5打席連続敬遠の時のメンバーがいるとか。
注4 NeXTのワークステーション アップルコンピュータを追われたスティーブ・ジョブズが設立したNeXTコンピュータが1988年に発売したワークステーション。Mac OS XやiOSの前身にあたる、NeXT STEPという革新的なオブジェクト指向型マルチタスクOSを搭載し、商業的には成功しなかったものの、今日のソフトウェア技術に大きな影響を与えた。
注5 DOS/V 1990年、当時の日本で主流だったNEC PC-9801に対抗すべく日本IBMが発表したPC用のOS。当時、PC/AT互換機は日本でDOS/V機と通称されていた。MS Windowsの普及と共にPC/AT互換機のシェア拡大に貢献した。
注6 Delphi 構造型プログラミングの教育に幅広く用いられていたPascalをオブジェクト指向向けに大幅拡張したWindows向けの統合開発環境。
インタビュアー/ライティング:古田英一朗