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第2章「人生のスピードを上げなければ…」大企業からの独立起業を決意した2011年

【連載】ソニックガーデンストーリー 10年分のふりかえり

「納品のない受託開発」を掲げ、フルリモート勤務や管理しない組織など柔軟な働き方を実践するソニックガーデン。
メンバーへの取材をもとにその10年の歩みを追いました。

紆余曲折を経て、社内ベンチャーとして立ち上がったソニックガーデン。社内ベンチャー時代の2年間では、SKIPの外販や、今やソニックガーデンの代名詞とも言える納品のない受託開発のプロトタイプへの挑戦など、多くの礎を築いていきます。

そして、“絶妙なタイミング”で倉貫チームとコンタクトを取った​西見 公宏を加え、創業メンバーが揃ったソニックガーデンは、独立への道に歩み始めます。

2-1 人に仕事を合わせていく

「社内ベンチャー時代の2年間が、ソニックガーデンのベースを作るうえで、すごく重要な期間でした」(藤原

社内ベンチャー化した倉貫チームがまず行ったのは、社内向けに開発されていたコミュニケーションツール「SKIP」の外販でした。社内ベンチャーといえど、事業部なので、当然のごとく売り上げ目標があります。自ら作ったソフトウェアを外販していくことで、収益を上げていかなければいけません。

とはいえ、当然、どのメンバーも営業は初体験でした。慣れない営業を試行錯誤しながら続けていくうちに、自分たちの得意、不得意が見つかっていきます。

「案の定というか、みんな、セールストークが苦手でした。ナンパができないタイプばかり。声を掛けて、売り込むということにどうしても前向きに取り組めませんでした」(藤原)

一般的な会社であれば、営業の研修を受けたり、セールストークを磨いてある種の“矯正”を行うところですが、倉貫や藤原の考えは違いました。

「仕事に人を合わせるのではなく、人に仕事を合わせていく。声を掛けるのが苦手なら、相談に来てもらうスタイルにすればいい。そう考えて、SNS運用の知見を教えるプライベートセミナーを開いて、人に来てもらうようにしたんです」(藤原)

TIS社内でのSKIP運営の実績を活かし、「SNSの専門家」が教えるというスタイルで集客を行う戦略に出たのです。この作戦が功を奏したのか、売り上げは徐々に伸び、ついに黒字レベルにまで成長していきます。「人に仕事を合わせていく」というこの考えは、その後のソニックガーデンにも大きな影響を与えていくことになります。

社内ベンチャーとして立ち上がった「Sonic Garden」の紹介資料


2-2 納品のない受託開発のプロトタイプ

社内ベンチャー時代のソニックガーデンは、もうひとつ重要な実験を行っています。納品のない受託開発のプロトタイプとなる、レベニューシェア型の受託開発です。

SKIP以外の収入源を得る試行錯誤の1つとして、ネクスウェイという企業との協働ビジネスとしてスタートしたこの受託開発。実験的な試みでありましたが、このプロジェクトでの経験がその後の納品のない受託開発にも引き継がれていくことになります。この、レベニューシェアの開発プロジェクトを手がけたのが、フリーランスのプログラマとして参画していた前田でした。

「レベニューシェアのプロジェクトの開発を担当したのはよく覚えています。その開発がうまくいって、これはいける、と手応えを感じたんです。当時は納品のない受託開発という名前はまだありませんが、今思えばあのプロジェクトの経験が原型となったはずです」(前田)

「ネクスウェイという会社は、元リクルートの人たちが集まり立ち上がった、異色の存在でした。ソニックガーデンも似た境遇だったので、不思議と馬があった。このときの経験値が納品のない受託開発のもとになったし、現場のメンバーたちの手応えにもなっていきます」(倉貫)

2009〜10年と様々な経験や実験を通じて、ソニックガーデンは今に続く礎を築いていきます。特に、このレベニューシェアでの挑戦は、「SKIPだけではない、自分たちの活路」を得たという意味で、メンバーたち一人ひとりの自信にも繋がっていくのでした。

2-3 なぜ、チームなのか?

ところで、社内ベンチャー化をする前に倉貫は「フリーランスになるか、小さい会社に転職するかを考えていた」と語っていました。なぜ、その判断を下さなかったのか。その考えの背景には、「チームで働く」価値がありました。

「根底にはアジャイル開発が好きで、それを実践したかったという思いがあります。そうなると、アジャイル開発は1人ではできないので、フリーランスという選択肢はなくなる。

それから、社内ベンチャー化したタイミングで、私は再びマネジメントに重心を置くようになったんです。そこで、改めてチームで仕事をする面白さを発見しました。

チームをコーディネートして、プロジェクトを進めていく。自分としても関心のあった領域ですし、メンバーもどんどん成長してくれていた。だったら、『このチームを大事にしていこう。自分はプログラマが活躍できるようにマネジメントしていく立場になろう』と、行き先を決めたんです。当然、転職するという選択肢はなくなっていました」(倉貫)

今でこそ経営者としての姿が当たり前となっている倉貫ですが、「チーム」をマネジメントする楽しさも、この頃の経験から見出していったもの。「社内ベンチャーでの2年がポイント」と藤原が語った言葉が、いっそう重みを持っていきます。

2010年2月、熱海合宿での1枚


2-4 2011年3月11日

社内ベンチャー化して約2年。順調に成長を遂げていたソニックガーデンでしたが、ここで転機が訪れます。TISの合併に伴う経営陣の人事異動により、これまでのように社内ベンチャーとして活動することが難しくなってきたのです。

せっかく自分たちなりのスタイルを見つけ、成長させてきた事業部がまた会社都合で消えてしまうかもしれない。三度、大きな壁にぶちあたるも、めげずに思案を巡らす倉貫。そんな最中、2011年3月11日、東日本大震災を経験します。

“人の命の儚さを思ったとき、人生をもう少しスピードアップしようと考えたんです。半年、1年がかりの社内調整を要する巨大組織のオペレーションを受け入れられなくなっていました。” 
-「第二回 倉貫義人が語る、ソニックガーデンできるまで」(ソニックガーデンコーポレートサイト掲載)より

そこで、倉貫が思いついたのがMBO(Management Buyout)という道でした。今、自分たちを評価してくれているお客様を喜ばせ続けるためには、MBOをして独立するしかない。そう決意した倉貫は、独立に向けた準備をスタートさせます。

時を同じくして、東日本大震災の経験から、自分の人生を見つめ直している男がいました。倉貫チームとは別のTIS社内のフロアで、ひとり物思いにふけるその男の名は西見公宏。

「震災があった1週間後に、倉貫さんにメールを送ったんです。当時は、パッケージソフトに関わっていたのですが、その仕事が性に合わなかった。もっと、バリバリコードを書きたかったんです。悶々としていたときに、震災が起き、『グズグズしてられない』という思いが強くなった。それで、社内の噂で興味を持っていた倉貫さんに、メールをしたんです」(西見)

2-5 そして、株式会社ソニックガーデンへ

「もうすぐTISから独立するんだけど、それでもいい?」

2011年初夏の頃。とある居酒屋の一席で、倉貫にそう言われた西見は、驚きを隠せませんでした。西見からすれば、事業部の“異動”のつもりで倉貫に声を掛けたのが、いつの間にか“転職”という話になっていたのです。

「マジか?と思いましたよ。でも、実は転職も考えていたので、渡りに船かなという思いもありました。TISにそのままいたら、昇進して管理職になって…という未来は見えていました。でも、その未来には、あまりピンときてなかった。だったら、思い切ってソニックガーデンという船に乗ってみようかな、と覚悟を決めたんです」(西見)

こうして、ソニックガーデンの創業メンバーである6人が集まることになりました。異色の存在だった技術基盤センターから、さらに異色な存在となる社内ベンチャーに。そして、自分たちを信頼してくれるお客様に価値を提供し、組織のあり方も継続させるための独立。安定的な大企業の中で起きているとは思えないような、嵐のような展開です。

独立を前にメンバーに不安はなかったのか。藤原と松村は、それぞれこう答えます。

「独立することをお客さんに伝えたら、『今後も藤原さんに仕事をお願いしたい』と言われたんです。これは、すごく自信になりました。真っ当なビジネスをしていれば、お客様はついてきてくれる。社内ベンチャー時代に積み重ねてきた信頼と実績があったので、不安はありませんでした」(藤原)

「当時から、倉貫さんとしか仕事をしていないので、独立しようが一緒にやっていくんだろうなぁという思いはありました。TISに残るイメージは全然なかった。技術力には自信があったので、独立してもなんとかやっていけるだろうと、不安はなかったですね」(松村)

そして、2011年10月。倉貫、藤原、安達、松村、前田、西見の6人は、株式会社ソニックガーデンとしての新たなスタートを切るのでした。

創業の挨拶をする倉貫と藤原


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