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第3章 起業1年目なのに苦労話がない? 地に足をつけた挑戦とケチ文化

【連載】ソニックガーデンストーリー 10年分のふりかえり

「納品のない受託開発」を掲げ、フルリモート勤務や管理しない組織など柔軟な働き方を実践するソニックガーデン。
メンバーへの取材をもとにその10年の歩みを追いました。

独立を果たしたソニックガーデンは「自分たちにできること」を大事にしながら、無謀なチャレンジはしない“堅実”なビジネスの道を歩んでいきます。納品のない受託開発を模索しながら、コミュニケーションツール「SKIP」の販促も確実に伸ばしていく。そんな、地に足が付いた起業物語が続く中で、突如兵庫のプログラマから採用への応募があり…。

3-1 今、できることをやる

2011年10月、ついに独立を果たした株式会社ソニックガーデン。創業にあたり、ソニックガーデンはSKIPに加え、もうひとつのビジネスの柱を建てることにします。それが、「納品のない受託開発」でした。社内ベンチャー時代から、受託開発が抱える問題をどうにかしたいと考えていた倉貫が、満を持して打ち出した受託開発の新たなモデルです。そこには独立を機に、新しい開発モデルを打ち出すことで注目を集めるという戦略的な狙いもありました。

創業直後に、倉貫が納品のない受託開発を中心に、ソニックガーデンのビジョンについてプレゼンをした貴重な資料がまだ残っています。資料の表紙にはすでに、「納品のない受託開発」の文字が。ところどころ「納品しない受託開発」と書かれているなどまだ言葉として定着していないのも、黎明期であることを表しています。

しかしながら、従来の受託開発の問題への警鐘、「Point Of Use」、サービス型の受託開発など今の「納品のない受託開発」に続く考え方がすでに記されているのは驚きです。

2011年に倉貫が行った講演のシート


さらに、「プログラマをスターに」「一生プログラマを仕事に」「顧客企業の真のパートナーに」など10年経った今でも大切にされているソニックガーデンらしい言葉も散りばめられています。

いかに、TIS時代の経験から倉貫が思考を深め、自分なりのビジネスモデルを思い描いていたかがわかります。そして、いずれの考えに対しても「アジャイルなど参考にはしているが、すでにあるモデルを目指したわけではない」と倉貫は言います。

「そもそも、創業メンバーも社内ベンチャー時代の流れで、“一緒にやっていた”メンバーだけです。まーくん(西見)こそ新しく入りましたが、それも元TISなので近い人間。創業にあたって新しく人を探すことはなかった。それに、ビジネスに関しても、SKIPはもともと自分たちで作ったものですでにお客様もいた。納品のない受託開発も、レベニューシェアの経験があったので、ある程度どうやればいいかは見えていたんです。

よくある起業物語のように壮大な夢を追いかけるという雰囲気ではありませんでした。今いるメンバーで、できることをやっていく。その中で“こういうことはしたくないよね”“こういうやり方がうちららしいよね”というのを考えていった結果が、納品のない受託開発だったんです。言ってしまえばすごく現実的で堅実な起業でした」(倉貫)

3-2 資金とケチ文化

起業の際によく苦労話として出てくるのが“資金面”の話です。「投資家にたくさん頭を下げた」「事業計画を何度も何度も作り直した」といった苦労話は枚挙にいとまはありません。しかし、ソニックガーデンの起業にはそうした苦労話はほとんどなかったと言います。

「SKIPですでに安定した収入はありました。だから、資金を無理して集める必要がなかった。未だにソニックガーデンは借金はしていないんです。“お金に困ったことはなかった”というと誤解を招きそうですが、事実そうだった。だからこそ、納品のない受託開発という新しいモデルにチャレンジできたんです」(倉貫)

筆者としては、“最初の3年は借金を返すので精一杯だった”というエピソードでもあれば、ストーリーを書くのが楽になるのですが、ソニックガーデンにはそういったお金にまつわる苦労話はありません。社内ベンチャーからという流れはあれど、一般的な「起業はお金で苦労する」という定説を覆す姿をソニックガーデンは示してくれています。

ただ、“お金に苦労はしていない”と言いながらも散財をしていたかというとそれも違いました。というのも、創業メンバーのほとんどが口をそろえて“ソニックガーデンにはケチ文化がある”と言うのです。

「創業して2年目くらいの合宿で、とある宿に泊まったんですね。もちろん個室なんかじゃなくて、大広間に雑魚寝です。男数人が、自分の寝るスペースを探して布団を敷いていたんですけど、僕とまーくんの寝る場がなかった。しかたなく、壺とかがかざってあるような床の間に布団を敷いて、そこで2人で、文字通り肩身を狭くして寝たんですよ(笑)。まぁ、そんな感じでケチな文化はありました。楽しかったですけどね」(安達

こうした考えを、倉貫は「ソニックガーデンでは、リスキーな打ち上げ花火はしない」と表現しています。つまり、社運を賭けるような博打には出ない、ということ。あくまでも、自分たちが持っているもので、できることをやっていく。それは、お金に関しても全く同じなのです。

2012年1月、メンバーによる書き初め


3-3 SKIPの全盛期と納品のない受託開発のチャレンジ

「2012年くらいにかけてSKIPの全盛期が来ました。ありがたいことに多くの売り上げがあったし、その頃に導入した企業の中には、まだ使ってくれているところもあります。SKIPが、ソニックガーデンの屋台骨となって支えてくれていましたね」(藤原

創業1年目、SKIPの営業や開発、運用は藤原、安達、前田がメインで担当していました。未だにSKIPを使い続けている企業がいるというのも驚きですし、わずか3人の戦力で運営していたのも驚きです。

一方、新たなチャレンジとなった納品のない受託開発。倉貫がフロントとなりながら、松村、西見を中心に開発を進めていく体制でした。この頃、どのように納品のない受託開発を行っていたのか、松村がふりかえります。

「あの頃は、最初の商談に入る前にプロトタイプを作っちゃう、という作戦をとっていました。問い合わせに書いてある内容を見て、勝手にこっちで簡単なソフトウェアを作っちゃうんです。それを、最初の商談のときに見せてみる。これが、何よりも営業の武器になるんですよね」(松村)

週に1〜2個のペースでプロトタイプを作っては、お客様に見せるを繰り返す。自分たちの強みを活かした独自の営業スタイルもあり、創業して2ヶ月ほどで最初の納品のない受託開発のお客さんが付いたといいます。

しかし、一方で当時は「今ほど、お客さんとの相性というか、一緒にパートナーとしてやっていけそうかという点は考えられてなかった」と西見が語るように、どのような相談内容、事業内容であっても請け負ってみるという形を取っていました。こうしたスタイルが後に新たな教訓を生むことになるのですが、それはまた少し先のお話しになります。

3-4 「Social Change」と兵庫のプログラマ

株式会社ソニックガーデンの1年目は、まさに地に足をつけた状態で進んでいきました。経営者としても初めての1年だった倉貫は、こうふりかえります。

「まだ当時は自分も案件のフロントに立っていましたが、それでも俯瞰的な視点でいろいろと動けてはいたかと思います。MBOをして、納品のない受託開発をスタートして、という一連のストーリーをどう社外に発信していくかは結構考えていましたね。そのためには、何でもやっていました。講演も積極的にしましたし、ブログ『Social Change』もずっと書いていたし、ソニックガーデンのコーポレートサイトも自分で作りました。会社のロゴも、実は僕が作ったものなんですよ」(倉貫)

社内ベンチャー時代から今に続いて、講演やブログなどで積極的に情報発信をしている倉貫。当時の代表的なブログタイトルを見てみると…「オフェンシブな開発〜『納品しない受託開発』にみるソフトウェア受託開発の未来」(2011年9月26日)、「プログラマを一生の仕事にできるビジネスモデルで目指す未来のビジョン」(2011年11月21日)、「これからの時代に求められるエンジニアのスキルとマインド」(2012年2月27日)など魅力的なタイトルがずらりと並んでいます。

このブログに、東京から遠く離れた兵庫県でひとり感化されていたプログラマが、後にソニックガーデンの採用第一号となる伊藤淳一でした。

「その頃、仕事がマンネリ化していて、転職を考えていたんです。どうしようかと、情報収集をしていたら、倉貫さんのブログと出会いました。そこには納品のない受託開発について書いてあって、斬新だけど筋が通っているし、すごく共感ができた。確か、まだ社内ベンチャーだった時代からブログは読んでいたと思います」(伊藤)

そして、TISからの独立をブログで知った伊藤は、「だったらソニックガーデンに入れるんじゃないか?」と応募を決意します。

「たしか、コーポレートサイトにリモートワークでもよいと書いてあって、ちょうどいいじゃんと思ったんです。実はソニックガーデンが使うプログラミング言語のRubyは使ったことなかったんですけど、なんとかなるだろうと応募してみました」(伊藤)

一方、応募の連絡を受けたソニックガーデンサイド。起業間もないころの応募にさぞ喜んでいるかと思いきや、メンバーたちは戸惑っていました。

「当時は、特に採用を考えていたわけではありませんでした。今もそうですが、何か目的にあわせて無理して人を採るということをしていません。特にまだ創業して間もないころでしたし、採用までは意識がいってなかった。そんなときに突然伊藤さんから連絡が来たので、正直驚きました。しかも、兵庫県に住んでいると書いてある。戸惑いはありましたが、断る理由もないので、一度会うことにしました」(倉貫)

独立後、比較的穏やかに始まったソニックガーデンのストーリーは、“兵庫のプログラマ”の登場でにぎやかさを増していくことになります。

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